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関東甲信越の戦国時代の城主、家臣十数万人を網羅し、その子孫である武士がどこの村へ土着したか、あるいは、どこの藩へ仕官したかを調査し、埼玉苗字辞典(第五巻 関東甲信越)を完成した。
本書は、「中世武士とは何者か。真実の武士世界を学ぶこと」にある。
吾妻鏡・及び尊卑文脈に載る全ての武士は、在名武士であって、苗字武士ではない。
関東甲信越の武士の多くは修験者であって、その修験者は、源平藤橘と親子・兄弟契約を結んで、その後裔と称して仮冒し、子孫は戦国城主及び上級家臣となっているのが、真実とするところである。在名武士は居住地の地名を名乗っていたが、古代以来所有していた苗字に復姓して土着し、あるいは、仕官した者は、そのまま在名を名乗ったのである。
読者の、東京都日野市 青木雪子様から、 埼玉苗字辞典(第五巻 関東甲信越)を読ませていただきました。平氏も源氏も在名を名乗り、苗字は別に持っていた、との返信をいただきました。
菊池、菊地、小椋さんの起源について
日本人のおなまえっ!(NHK2/1)について。
菊池さんは、南北朝の戦に敗れ、東北地方に逃れ、菊地を名乗った人達もいるとの見解は、かなり無理がある。というのは、たかだか600年ほど前のことであるが、現在、菊地さんは、全国に15万人もいる。よって、先の見解では、この人口は説明できない。
茂木和平古代苗字起源説によれば、大昔の神武東征以前に、摂津国へ、新羅から、木工集団が渡来し、その首領の、久々智(くくち)公が『新撰姓氏録』・摂津皇別に登場する。このくくちの最初のくが母音変化すると、きとなって、木口(き_くち、口は集落を意味する)は、佳字の菊池(きく_ち)を当てたとなる。この集団が、九州方面にも移り、繁栄したとすると、菊池さんの人口、15万にもなりうる。
一方、東北地方には、その後、朝鮮半島から、再度、木工集団が渡来し、繁栄し、その子孫は、菊池、菊地(菊池とは、ちの当て字が異なるだけである。特に意味をもたない)を名乗った。
木地師の小椋(こぐれ)さんは、小暮(こぐれ)さんと同じで、ただ、当てた漢字が異なるだけである。こ_ぐれ←こぐ_れ←こく_れ、と変化し、
こく_れ、とは、国礼←国羅(こくら、らは那(くに、集落)を言う)
よって、小椋とは、韓半島出身の国氏の集落である。この国の字は日本語では、こく、と読むからである。